「中庸」とは、「偏りのないこと」を意味する言葉です。『論語』の中で孔子は「過不足なく偏りのない徳」を「中庸」と呼びました。また、江戸時代の有名な儒学者、貝原益軒は著書『養生訓』の中で、「養生の道は中庸を守らねばならない」と記しています。「中庸を守る」とは、「過不足のないことを言う」とのことで、例えば、食事を採るにあたっては「食物は飢えを満たしたところでやめるべきである」とか、日常のいろいろなことについて説いています。

 東洋医学では「陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる」ともいい、何事も極端な方向に行き過ぎると全く逆の反応が出ると考えられています。つまり、「中庸を守る」ことは「食べ過ぎる」といった「すぎる」行為を避け、何事も「ほどほどにする」とも言いかえられます。

ただ、「中庸」「ほどほど」というお話をすると、患者さんの中には「自分の年代の平均値」と考える方もいます。確かに同年代の平均的な数値をもとに、自分がそれに対してどうなのか(平均体重に対して太っているとか痩せているとか)といったことを知るのは、養生にあたっての目安の一つにはなるかもしれません。

しかし、それは残念ながら「個人」の「中庸」ではないのです。もう何十年も生きていると、自分自身の身体はそれなりに偏りが生じている可能性が高いです。例えば、「冷えやすい」「太りやすい」といった、いわゆる体質のようなものを多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。

 東洋医学における「中庸」とは「その個人にとって偏りのない状態」という意味でしょう。これに比較して、西洋医学(現代医学)における中庸の意味はどのようなものでしょうか。それはおそらく「大多数の平均状態」を指していると考えられます。だからこそ西洋医学では基準値・正常値は欠かせないし、数字は絶対的な意味合いを持ちます。これが多くの場合、診断の拠所となっています。

 しかし、東洋医学には数字はほとんど登場しません。その理由は「中庸」が他者との比較で捉えられるものではないからです。あくまでも個の中での概念であり、それゆえ基準値は必要とされません。「好調なときに比べて、今は偏りが生じて不調になっている」、だから「中庸」に戻そうという発想です。

 つまり、東洋医学では個の事情は保障されているものの、「基準値から外れているから治療対象です」ということにはなりません。それでは、例えば糖尿病の患者でその保障を行ったらどうなるか、調子がよいのだから高血糖は許す、ということになり治療は成立しません。血圧にせよ何にせよ、同様のことが起こります。個の保障とは基本的に個の生命力を基盤にするものであって、いかなるときにも利益を与えるものとは限りません。まして、漢方薬などがオーダーメイドなどという耳ざわりのよい言葉にすりかえることは誤りでしょう。

 「中庸」の意味の違いは東洋医学、西洋医学双方の根源的相違を物語っています。漢方薬を西洋薬の一部として扱おうとする行為(いわゆる病名処方)の限界も教えてくれます。

東洋医学と西洋医学を両者の「融合」と称して、ただミックスすればよいというものではありません。あくまでも人を診る目として二通りのものをもっているという認識が重要なのであり、「補完医療」としてうまく活用すべきなのだと思います。